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〇昭和の那覇‐独り言 (2)

〇昭和の那覇‐独り言 (2)

東呉大学教員 長田正民


2004(平成12)年、幼稚園生の子供たちを連れ、那覇に5日間、戻った。現在、僕の実家は東京の下町・清澄白河で、姉夫婦が住む。那覇に帰省する時は、ビジネスホテル住いだ。泊港近くのホテルに宿泊。

朝早く目が覚め、6時ぐらいから、付近を散策した。まず、若松通りを歩きながら母校の那覇中へ。相変わらず、閑静なたたずまいだ。若松公設市場付近から、若松通りに戻ると街並みは一転する。そこから先は異次元のよう。

「アキサミヨー!」(何じゃ、こりゃ!)

「松山」-以前は食品や布地の静かな問屋街だった若松通りは、一銀通りが近づくにつれ、風俗街になってしまった。

幼少の頃、松山にいた記憶の中で、近くの人が飼うニワトリの「コケコッコー」の挨拶が朝の目覚めだ。那覇商業高校に近い家の前は空き地があり、よく銀紙が落ちていた。僕は近所の子供たちとそれを拾って、遊んでた。

或る日、前島に引っ越すという。大きくなって母が言うには、銀紙は日本軍の若い少尉さんを供養する銀紙だったそうだ。

松山は沖縄戦で日米激戦となった場所の1つで、戦車部隊の少尉さんはそこで負傷、近くの布団屋のおばさんが、数週間、赤チンキなどで応急手当てをしたのだが、甲斐なく息を引き取った。少尉さんは毎年、布団屋のおばさんにお礼の「挨拶」をしに現れるという。ちょうど、ベトナム戦争があった頃で、家の2階にはアメリカの軍曹夫婦が住んでいた。ある晩、シャワーを浴びていると、例の少尉さんが現れたという。軍曹は高熱を出し、米国内の病院に送られたのだ。母はその話を聞いて引っ越しを決めた。 

若狭幼稚園で1学期だけいた僕は前島に引っ越したのだった。  (続く)






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